【論考要約】地政学的ナラティブとベンダーの「恐怖マーケティング」はいかにして我々の意思決定をハックするか?

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日本のサイバーセキュリティ言説を支配する「4つの類型」と認知バイアス
本稿は、私、坂根康之が2025年6月にVC向けに行った講義資料「恐怖の言説:日本のサイバーセキュリティ・ナラティブに関する批判的深層分析」を要約、ブログ記事としてまとめました。
日本のサイバーセキュリティ業界には奇妙な構造的断絶が存在します。経営層には「国家間のサイバー戦争」という壮大な物語が語られ、現場には「地味な設定ミス」や「ありふれたランサムウェア」という現実が横たわっています。なぜ、この乖離は埋まらないのでしょうか?
特定の個人や組織を批判するのではなく、公開情報に基づき日本のセキュリティ言説を形成している「構造」そのものを認知科学と社会工学の視点から解剖します。地政学的戦略家、ベンダー、そしてアジェンダ設定者が織りなす「恐怖のループ」から脱却し、経済合理性に基づいたレジリエントな意思決定を取り戻すための論考です。
はじめに:構築された現実としてのセキュリティ
サイバーセキュリティにおける「真実」とは、客観的に与えられるものではなく活発に構築されるものです。それは脅威に関するナラティブ(物語)が、企業の予算、メディアの注目、そして政治的な影響力を求めて競合する「アイデアの市場」です。この言説空間は語り手の専門的背景、所属する組織、そして不可分な商業的利益によって深く形成されています。
日本のセキュリティ言説空間を観察すると、そこには明白な断絶が存在します。経営層や政策決定者レベルでは、国家間のサイバー戦争や重要インフラへの破壊工作といった「地政学的な悪夢」が語られます。一方で現場レベルでは、クラウドの設定ミス、既知の脆弱性の放置、そして金銭目的のランサムウェアといった、より平凡で経済合理的な課題に直面しています。
本稿の核心的な問いは、なぜこの乖離が解消されないのか?という点にあります。なぜ組織は自社のリスク実態とは必ずしも合致しない、高額で重厚長大なソリューションへの投資を続けるのでしょうか?その答えは、人間の認知的な脆弱性を巧みに利用した「マーケティング」と「ナラティブの構造の中にあります。
1. 言説を支配する4つの類型(アーキタイプ)
日本のサイバーセキュリティ言説を脱構築するために、主要なアクターをその機能と発話内容に基づいて4つの類型に分類します。なお、本分析は構造的な批判を目的とするため特定の個人や組織名は伏せ、その属性によって記述します。
1.1 地政学的戦略家(The Geopolitical Strategists)
第一のグループは、元防衛関係者やグローバル・コンサルティングファームに所属する戦略アドバイザーたちによって構成されます。彼らの言説は、自身の経歴である「国防」や「諜報」のレンズを通してサイバー空間を解釈することに特徴があります。彼らにとってサイバー攻撃とは単なる犯罪や技術的な不具合ではなく、国家の意思が介在する「戦略的な作戦」です。
彼らは頻繁に「ハイブリッド戦」「経済安全保障」「重要インフラへのテロリズム」といった用語を用います。このナラティブは、サイバーセキュリティを技術的な管理領域から経営および国家安全保障の領域へと引き上げる機能を果たします。これにより、彼らは単なる技術アドバイザーではなく国家戦略に通じた「参謀」としての権威を獲得します。
1.2 技術的現実主義者(The Technical Realists)
第二のグループは、ウェブアプリケーションの脆弱性診断員や現場でのインシデント対応を行うエンジニアたちです。彼らは「技術的現実主義者」と呼ぶべき存在であり、検証可能なコード、ログ、設定ファイルという具体的事実に基づいて発言します。
彼らの言説は、SQLインジェクションやクロスサイトスクリプティング、認証不備といった地味ながらも致命的な欠陥に焦点を当てます。彼らにとっての脅威とは、高度な国家ハッカーではなくシステム開発工程における「品質管理の失敗」です。彼らの視点は極めて正確ですが、戦略家たちが語る壮大な物語に比べると経営層への訴求力において劣勢に立たされがちです。
1.3 アジェンダ設定者(The Agenda Setters)
第三のグループは、世界的なIT調査会社や国内の大手シンクタンクです。彼らは単に市場を観察するのではなく、市場の「空気」を作り出すアジェンダ設定機能を持ちます。
彼らが毎年発表する「トップトレンド」や「技術予測」は、セキュリティ業界における共通言語を定義します。例えば「ゼロトラスト」や「SASE」といった概念は、彼らが定義し推奨することによって、初めて組織が取り組むべき「課題」として聖別されます。彼らのレポートは、企業の意思決定者が予算を確保する際の「正当性の根拠」として機能し、市場全体に強力な同調圧力を生み出します。
1.4 ソリューション・ベンダーとエバンジェリスト(The Solution Vendors)
第四のグループは、通信キャリア系、独立系を含む主要なセキュリティサービス提供者(ベンダー)です。彼らは、上記の3者が作り出したナラティブやトレンドを具体的な製品やサービスの販売へと変換する実働部隊です。
彼らは「エバンジェリスト」と呼ばれる役職者を配置し、最新の脅威動向を解説しながら巧みに自社ソリューションの必要性を説きます。特に、社会的に耳目を集める大規模なインシデントが発生した直後には、その恐怖を「解決策(自社製品)」へと結びつけるマーケティング活動を活発化させます。
2. ナラティブと現実の乖離:二つの断絶
これらのアクターが織りなす言説空間には、大きく二つの構造的な乖離が見られます。
2.1 国家中心主義ナラティブとプラットフォーム現実の乖離
第一の乖離は、脅威の主体に関するものです。地政学的戦略家が主導するナラティブでは、攻撃者は「国家」であり、その行動は軍事作戦の一環として語られます。しかし、現代のIT環境における運用の現実は、特定の敵対国家との対立よりもクラウドサービス、SaaS、API連携といった「プラットフォームの複雑性」そのものがリスクの源泉となっています。
多くの侵害は、高度なゼロデイ攻撃ではなく、既知の脆弱性の放置やクラウドストレージのアクセス権限設定ミスといった基本的な衛生管理(サイバーハイジーン)の欠如から生じています。サプライチェーンリスクと呼ばれるものも、その本質は「信頼」の問題ではなく相互接続されたエコシステムにおける管理の限界という構造的問題です。
しかし、商業的な言説においてはこの二つが奇妙に接合されます。「国家レベルの高度な攻撃(Why)」を防ぐためには、「ゼロトラストという最新のプラットフォーム製品(What)」が必要であるという論法です。恐怖の源泉と解決策の間に論理的な飛躍があるにもかかわらず、それがマーケティングによって埋め合わされています。
2.2 破壊動機の虚構と経済合理性の現実
第二の乖離は、攻撃者の動機に関するものです。メディアやカンファレンスでは「重要インフラの破壊」や「社会機能の停止(サボタージュ)」を目論む攻撃者の存在が強調されます。国内の主要な港湾システムが停止した事例などは、しばしばこの文脈で語られます。これを「サイバーテロ」や「破壊工作」と呼ぶことで脅威は劇的で恐ろしいものとなります。
しかし、統計的なデータやインシデント対応の現場レポートが示す現実は「はるかに散文的」です。攻撃の圧倒的多数は、経済的利益を目的とした犯罪グループによるものです。彼らの動機はイデオロギーではなく「ROI(投資対効果)」です。ランサムウェア攻撃でシステムを暗号化するのは、社会を混乱させたいからではなく身代金を支払わせるための最も効率的な手段だからです。
「破壊工作」というフレームは、攻撃者をテロリストや軍隊に見立てることで過剰な防衛投資を正当化します。しかし、相手が「ビジネスマン(犯罪者)」であるならば、防御側もまた相手のコスト対効果を悪化させるという経済合理的なアプローチを取るべきです。恐怖に基づく過剰反応は、リソースの配分を歪める結果となります。
3. 恐怖マーケティングの構造と認知メカニズム
なぜ、合理的な判断を下すべき企業の意思決定者たちが、このような乖離したナラティブを受け入れてしまうのでしょうか。そこには、認知科学で説明可能な心理的メカニズムと巧みなマーケティング戦術が介在しています。
3.1 権威バイアスと専門用語の門番機能
セキュリティという専門性が高く、かつ失敗が許されない領域において人間は「権威バイアス」に強く影響されます。元防衛関係者や政府のアドバイザーといった肩書は、その発言内容の真偽を検証しようとする批判的思考を停止させる強力なシグナルとなります。「専門家がそう言うのだから違いない」という思考のショートカットが働きます。
加えて、業界に蔓延する難解な専門用語(ジャーゴン)は、情報の非対称性を固定化します。「XDR」「SASE」「CNAPP」といった用語は、技術的な意味を伝達するだけでなく、それらを理解する「内集団(専門家)」と、理解できない「外集団(顧客)」を分断する門番(ゲートキーパー)として機能します。言語によって劣位に置かれた顧客は、専門家の解釈と提案に依存せざるを得なくなります。
3.2 利用可能性ヒューリスティックとFUD
ベンダーのマーケティングは「利用可能性ヒューリスティック」を巧みに刺激します。これは、人間が頻繁に見聞きする情報や衝撃的な出来事を「起こりやすいもの」として過大評価する認知バイアスです。
ニュースで大きく報じられた情報漏洩事件やインフラ停止事故は、記憶に残りやすく想起しやすい事象です。ベンダーのレポートやセミナーは、こうした特定の事例を繰り返し強調し「次はあなたの番かもしれない」という不安(Uncertainty)と疑念(Doubt)を植え付けます。FUD(Fear, Uncertainty, and Doubt)と呼ばれるこの手法は、抽象的なリスクを、切迫した個人的な恐怖へと変換する強力なエンジンです。
3.3 バンドワゴン効果と社会的証明
アジェンダ設定者が発表するトレンドレポートや他社の投資動向に関する統計データは「社会的証明」の原理を作動させます。「同業他社のX%がすでに導入している」「今年は〇〇がトレンドである」という情報は、取り残されることへの恐怖(FOMO)を煽ります。
これにより、「バンドワゴン効果(勝ち馬に乗る心理)」が発生します。組織は、自社のリスク評価に基づいて必要な対策を選ぶのではなく「みんながやっているから」「標準から外れたくないから」という理由で特定のソリューションを採用するようになります。セキュリティ投資が、リスク低減の実利的な行為から標準に準拠していることを示す社会的なパフォーマンスへと変質してしまうのです。
4. 結論と提言:レジリエントな思考への回帰
以上の分析から、日本のサイバーセキュリティ言説が事実よりも「恐怖」と「権威」によって駆動されている構造が明らかになりました。この状況を脱し、組織が真に合理的でレジリエントなセキュリティ態勢を構築するためには、以下の視点を持つことが不可欠です。
4.1 ナラティブの主導権を取り戻す
CISOやセキュリティリーダーは、外部から与えられるトレンドや脅威シナリオを鵜呑みにせず自組織の資産とビジネスコンテキストに基づいた独自の脅威モデルを構築すべきです。メディアで話題の「国家の攻撃」よりも、自社の従業員が日常的に利用するクラウドサービスの不備の方が、確率的にも影響度的にも重大なリスクである可能性があります。
4.2 ベンダー言語の翻訳と脱構築
ベンダーやコンサルタントの提案に対しては、常に「翻訳」を試みる必要があります。彼らが使う「地政学的リスク」や「サイバー戦争」という言葉を具体的な技術的構成要素(どのポートや脆弱性がターゲットになるのか?)に分解し、NIST CSFなどの標準的なフレームワークにマッピングし直すことでその提案の実質的な価値を評価できます。
4.3 経済合理性に基づく意思決定
経営層は、「安心」を買うためではなく「リスク」を管理するために投資するという原点に立ち返るべきです。攻撃者が経済合理性(ROI)で動いている以上、防御側も投資対効果(ROI)で対抗するのが定石です。恐怖に駆られて無制限に予算を投じるのではなく、守るべき資産の価値に見合った持続可能な防御策を選択する冷徹さが求められます。
4.4 技術的現実主義の復権
最後に、地味で退屈に見えるかもしれない「技術的現実主義者」たちの声にもっと耳を傾けるべきです。彼らが指摘する脆弱性の修正、パッチ管理、適切な権限設定といった基本的な対策の徹底こそが国家レベルの攻撃であれ犯罪グループのランサムウェアであれ、あらゆる脅威に対する最も有効な防御壁となります。
言説(ディスクール)は現実を作りますが、私たちがその構造を理解し批判的に向き合うことでその支配から逃れることは可能です。恐怖の物語から目覚め現実のリスクと向き合うこと。それが、真のセキュリティへの第一歩です。
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